主体的に生きていく



こんにちは、やまだゆうきです。

人間の認識の専門家をしています。

僕の周りには、本質的なことを日常の中で当たり前のように会話する人たちばかりです。

そんな人たちは、人間として安定しているように感じます。


 人間として安定している人の特徴

  • 自分を客観的に俯瞰する目を持っている

  • 存在や現象ではなく、何をどう思うのかに焦点を当てられる

  • 発言することにコンプレックスがない

  • ミスよりも試行錯誤を面白く感じている

  • ワクワクすることに対して素直

こんな共通点があるかなと思います。

もちろん、キャラクターはそれぞれですけどね。

そこには、自分が主体的に生きているのか、それとも受動的なのかで大きな違いが生まれてきます。

今回は、主体的な生き方について語ってみたいと思います。

◆人間とは

ちょっと話が飛んでしまうんですが、

「人間とは何なのか?」

この規定がないと、何をもって主体的なのか、受動的なのかを深められません。

認識技術・nTechでは、人間とは尊厳そのものであり、認識することのできるあらゆる世界を創造している主体であると規定しています。

しっかりと学べば、よりシンプルな表現として、源泉的な動き「1」そのもの、となります。

その学びを得て、僕自身が人間とは何かをどう規定しているのかというと、

「考え・感情・イメージ・エネルギー・アイデンティティを創造する心・意志そのもの。創造する主体」

だとしています。

もうここで、結論が出ているようなものですが、人間はそもそも主体なんだということですね。

では、どうして、受動的になるんでしょうか?

◆受動になってしまうのは

受動的になってしまうのは、脳の認識のクセの影響です。

認識のクセとは、脳が世界を認識するときのパターンのことですね。

あるパターンをもって脳は世界を認識してしまいます。

私たちは常に、脳の認識のクセの影響下にあります。

認識のクセの影響下にあると、自分という存在についてもクセをもって認識してしまうということになります。

つまり、

自分の部分だけを認識して、その部分的情報だけで自分とは〇〇だと、決め付けてしまうんです。

それによって起きるのが、他人を介在させて自分を存在させようとすることです。

  • 他人の目を気にする

  • 常識やルールにとらわれてしまう

  • 自分なんてと思ってしまう

というのは、他人を介在させてしまうからこそ起きる、解析(考えや感情)です。

私たちは、常に脳の認識のクセの影響下にあります。

ということは、いつも他人を介在させながら自分という存在を現そうとしているんだということ。

これが受動になってしまう仕組みです。

◆主体として生きるには

源泉的な動き「1」そのものになることが結論ですが、そこに行くまでとそこに行ってからも重要です。

源泉的な動き「1」とは、言い換えると、認識のクセの影響の外に出ること、認識のクセから自由になることとなります。

行く前と行った後は、認識のクセの中です。

自分というポジションが、「認識の結果の私」となるのか、それとも「認識のクセを使う私」となるのかの違いです。

認識のクセを使う私そのものになることはもちろん重要です。しかし、認識した結果の私も同じくらい重要です。

なぜなら、現実のすべては認識した結果の世界だからです。

つまり主体として生きるには、

ポジションの移動と認識のクセと使えるようになること、この二つが必要になります。

「1のポジションにいる私」と「認識のクセを使える私」の関係を安定的に結べること。これが主体的に生きる答えとなります。

とはいっても、ポジションは簡単には得られません。

逆に簡単に得てしまうと、認識するという行為がおろそかになりがちです。

ポジションを得る前に、しっかりと認識のクセを使うとはどういうことなのかの理解を深め、使えるスキルを身に付ける必要があります。

◆自分の認識を観察する

認識する行為は、脳が勝手にやってしまっています。

いわゆる無意識というヤツです。

無意識を意識化することは、自分ではなかなかできません。

クセをもってクセを観察するのは不可能に近い芸当です。

しかし、日常の中で当たり前のように起こることを通して、自分の認識と向き合うことが出来ます。

それは、「他人との違いを観察すること」です

もちろん、容姿や振る舞いといった5感覚的な情報ではなく、何をどう思うのかの認識の違いです。

その中でも特に、自分の前提となっている「思い込み」「決め付け」を発見することが、自分の認識を観察することとなります。

例えば、

家で食事をした後に、食器を洗って拭くのか、乾燥させるのか。

もし、相手が拭く派、自分が乾燥派だとすると、そこには前提の違いがあるよ、ということになります。

例えば、

拭く派は、雑菌が付くのが嫌だ。

乾燥派は、拭く時間がもったいない。

洗った食器の扱い方という同じことを話していると思い込みやすいのですが、実は、二人は全く別の世界を見ていたことが分かります。

雑菌を見ている世界と時間を見ている世界の違いがある、ということですね。

自分を理解するには、自分と違いのある出会いが必要です。

違いと出会うことによって、相手を理解し、同時に自分を理解することになります。

そんな新たな発見を探し出そう、気付こうとする行為こそ、主体的な生き方そのものです。

ぜひ、認識の違い、前提の違いに焦点を絞ってみてください。

意外な発見に驚くことが少なくありませんよ。


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