8月は日本に、人の争いの残酷さを再確認する月でもあります。

by 靖国神社
1945年から数えて、70年を迎えました。
しかし、人は争いを未だ止めることができずにいます。 国家間はもちろん。家族や個人の心の中と様々なところで、起きてしまいます。 争いは誰にでも起きることです。残酷だと分かっていても。
「争いを減らすのであれば、我々の過ちだけを論じるのではなく、正しい行いも追求すべきです」 スティーブン・ピンカー
TEDの講演の中で、心理学者でもあり認知心理学者でもある彼は、人類の長い歴史の中で、暴力のよる死亡が減少していることを示し、正しい行いにも注目すべきことを問いました。

何かを解決しようと問題点だけにとらわれてしまうと、さらに多くの問題と出会うことはよくあります。 解決に大切なのは、今の自分が気付いていない何かを発見する認識にあります。
「正しい戦争なんてない」 これは僕の好きなアニメ、機動戦士ガンダムUCのセリフです。 このセリフの後にこう続きます。 「正しさが人を救うとは限らない」
どんな戦争も反対だ。そんな話はよくあります。それはもちろん、正しいことです。 でも、「正しさ」が人を悲しませることがあるのも事実です。 争いを止めるには、人の内面に認識を持っていかなければなりません。 当然だと認識しているその世界の裏側に。
正しさとは何でしょうか。 人によって正しさは異なります。集団ともなれば、異質は現実を動かす決定的なものにさえなります。 正しさと正しさが異質なものになれば、生まれるのは争いの火種です。
正しさを否定されれば、存在そのものをつぶされたとさえ錯覚してしまいます。
正しさが、自らの存在の確立を示すポジションなってしまえば、争いを止めることも容易ではなくなります。 しかし、その異質をどう解析するのかで、争いではなく、お互いの進化成長につながるのかがる違いにもなりえます。

誰もが違いと出会います。 認識のクセによれば、人が認識することができる世界は、違いと出会って生み出された世界です。 違いという境界線が無い世界には、出会いが生まれません。 あらゆる解析の結果は、違いを認識した結果であるといえます。
不和と和は違うものでしょうか。 不和を嫌い、和を求めがちですが、不和と和は相互に作用し合う関係にあります。 不和になるには、和が必要です。同じく、和になる為には、不和が必要になります。 良し悪しで決めつけるのではなく、不和と和の相互に作用し合う関係性をどんな方向性へ結ぶのかという発想も可能です。
違いばかりを見ていては、その相互に循環している関係性が観れなくなります。
問題は、この方向性を紡げないところから必ず生まれてきます。 進化は、今までの当然を解き、新たに紡がれた世界からの産物です。 どちらが正しいのか、どちらが間違っているのか。 その出会い方では、進化成長は期待できません。 正しい側の思った通りに事が進んでいくだけです。 これまでがあったように、これからがあり続けてしまいます。
では、どんな変化をすべきなのでしょうか。 認識のクセの観点から、この異質との出会いから争いが生まれるメカニズムを解析した映像をご紹介します。
部分だけを解析しているのに、全体だと思ってしまう。 そんなことを繰り返していると、自分自身の存在価値を、他人と比較することでしか見いだせなくなってしまいます。 あらゆるポジションは、あなたの部分でしかありません。 子どもであれ、親であれ。男であれ、女であれ。上司であれ、部下であれ。 そのポジションであなたを語れるのなら、他のポジションでも語れるはずです。 違いばかりに固定されるのではなく、相互にどんな出会いを紡いていくべきなのか。
問題はその方向性を紡げないところから生まれてきています。