
フランスではテロが再び起こりました。 日本では、イジメによるニュースが途絶えることがありません。 イジメもテロも共通するのは、尊厳を奪う争いだということ。 尊厳を失った側が、自らの尊厳を取り戻すために、他人の尊厳を傷つけてしまいます。
これらのニュースの裏に、尊厳を取り戻す叫びが響く世界があるように思えてなりません。
痛みとは、出会いです。 出会いがあるから自分が何者なのかが分かります。 どこからどこまでが自分なのか。この自分という存在は何をなせることができるのか。 出会うことができるからこそ、その先の出会いができます。 僕は一度、歩けなくなったことがあります。 スポーツにより膝の靭帯を損傷し、全く歩けなくなった状態から、歩けるようになるまで3か月を要しました。 もう一度、スポーツができる状態に復帰するまで半年のリハビリが必要でした。 動けなくなってしまった時、「どうして自分が…」と他人を羨み、自分を嫌悪し、希望が見えない闇の中で何かにすがる解析ばかりが溢れ続ける日々を繰り返していました。 ふと、そんな自分の状態が客観的に観えたとき、何も始めていない自分に気が付きます。 そこから、まず歩くことから始めてみようと、1センチ足を前に動かすことを繰り返す毎日が始まりました。 歩けなくなったとき時に初めて、歩くとはどういうことかを解析します。 多くの複雑な動作の基で、歩くという動作ひとつが成り立っていること。 全く歩けないところから観れば、1センチしか前に進めなくても、行きたいところへ行けることがどんなに喜びなのか。 それまでは気付くことができなかっ出会いをたくさん発見することができます。 些細な出会いをたどっていけば、今ここの「自分と自分の創る世界」があり続けていけることが、どれほどの意味や価値を付けても足りないほど、素晴らしく力強い世界なのかが観えてきます。

世界は些細な出会いで満ちている
尊厳を取り戻す叫びが響く世界の中で、私たちができることは、尊厳の全てを奪うことも、失うこともできないことを知ることです。
例え傷ついたとしてもそれは、一部だけでしかありません。
その一部を全てだと思い込んでしまうのは、自分自身です。
全てだと解析した瞬間から、自己存在を守ろうと、敵を作り、戦闘体制を整えてしまいます。
「奪われた」「失った」と解析できることさえも、奪われたのが、失ったのが一部だからこそ、その解析ができます。
大切なのは、まだそこにある自らの尊厳によって、何に気付き、発見できるかです。
自分の尊厳が傷つけられたからといって、他人にも同じことで、自らの尊厳を取り戻そうとしていては、自分の尊厳とは何かと出会うことはできません。
自らの尊厳が失われることがない安心感を取り戻すことができれば、いじめる必要性はなくなります。
自らの尊厳を取り戻すために、他人の尊厳を傷つけ、自己存在の意味価値を取り戻そうとする必要がなくなるからです。
私たちの解析は相違点のみを解析してしまいます。
どんなに部分的解析を集めたとしても、全体にはなりません。部分と全体は、次元が異なる世界です。
全ての解析(部分)を包み込める位置にいるのが、尊厳です。
尊厳の全てが失われることがないこと実感できる教育が、世界の基軸となることを願うばかりです。 尊厳を取り戻したい心の叫びが響く世界の中で。 出会えないところから出会えた たった一つのメッセージは
ALL NO & ALL YES

by オノ ヨーコ 天井の絵 Ceiling Painting (YES Painting)