素粒子物理者のハリー・クリフ氏が、なんと物理学の終焉を予言するような内容を話しています。
テーマも「物理学は終焉に達したのか?」
彼の話を要約すればこうです。
宇宙の始まりから現在に至るまでを一言で表現すれば、「無ではなく物の存在があるのはなぜか」 という問いに集約できます。
これまでの物理学では、いくつかの画期的な発見によって進歩してきました。 相対性理論や量子力学に始り、様々な理論やアイデアは打ち出されてはいるものの、それを実際に確認することは出来ないという狭間に立っています。
物理学では、昔からある判断基準がありました。 その判断基準に合格しないと、正式な物理学だと認めてもらえないのです。 それは、「五感覚で確認ができること」
しかし、最新の物理学ではある問題が起きています。 それは、もう人の五感覚では捉えることができない領域に踏み出しているということです。 例えば、最新の物理学理論では、宇宙を11次元で語るものや、10の500乗個の宇宙が生まれていると語るものがあり、実証不可能な世界ということで、物理学の定説としての地位を得るには至っていません。
これを実際に確認をするために、ヨーロッパに巨大なCERNと呼ばれる実験装置が建設され、稼働しています。 ヒッグス粒子を発見したというニュースが世界中を駆けめぐったのは、まだ記憶に新しいですが、このCERNで生み出された成果です。しかし、成果はそれだけでした。 よりもっと画期的な発見がなされると期待されていました。
今、装置の能力を倍に上げ、再度試験を行う計画があります。そこで成果が上がってこなければ、物理学は終演へと向かうことになるだろうというのが、ハリー・クリフの予言です。
さて、 「無ではなく、なぜ存在があるようになっているのか」この問に答えられないのが、なぜ終焉となるのでしょう。
それは、宇宙の始まりが分からなければ、私たちが何者なのかも分からないということを意味してしまうからです。 その探求するアイデアが枯渇してしまうのですから、終焉という単語をつけてしまうのですね。
そのネックとなっているのが、「五感覚で確認ができること」という判断基準にあります。
五感覚で確認ができるかどうかは、古典物理学の絶対的な判断基準です。 確認ができなければ、それは物理学ではなく単なるSFにすぎないというのが、昔から続く物理学者たちの願いでもあり、呪縛でもあります。
宇宙の真実を解き明かしたいという思いが、神の鋳物という呪縛から解き放ち、人が真実を探求する行為を正当化させたものが、この基準でした。

「自らが確認ができること」
ここには、「神の鋳物という基準」から「独立した人間」としての、プライドと尊厳を回復しようとする願いが込められています。 願いはルネッサンスとして花開き、多岐にわたる再創造を不連続に起こすこととなりました。 しかし、探究が進むにつれ、私たちの「五感覚という基準」から見える世界とは、かけ離れた世界と出会うことに困惑している現在があります。 その時、神からの呪縛を解く基準が、あらたな呪縛として働いてしまっているんです。
終焉は、五感覚の観点に固定して世界を見ることの終焉とも同意です。
認識技術・観術・Noh's wayでは、新たな基準点を提供しています。 「自分」と「自分の世界」を創り出す基準点。 存在があるから認識するのではなく、認識するから存在するのでもなく。
認識と存在が同時に起きている仕組み・メカニズムを解き明かす基準点です。
五感覚の観点から自由にさせる基準点です。
心と考えを同時に生み出す基準点。 思いと現実を同時に生み出す基準点。 希望と絶望を同時に生み出す基準点。 自分と宇宙を同時に生み出す基準点。
是非一度、触れてみてください。
詳細はこちら