ミスをすることを追及するのではなく、すぐにリカバリー(回復)できないことを追及すべきなのではないかと思う件


ニュースや報道では、誰かがミスをしたことに一斉に糾弾する現象が起きてしまいます。 「あなたが悪いんだ」と言わんばかりに、ミスを起こした責任を追及しながら、人間性や存在を否定するニュアンスが含まれてしまいます。

この状景に触れる度に、心がぎゅっと緊張してしまいます。

この状景に触れるといつも思い出されるイメージがあります。 それは、キリスト教の聖書に出てくる、イエスの言葉です。

マクダラノマリアが娼婦であることを罪とされ、周囲の人たちの糾弾によって石を投げつけられる場面で、イエスはこう言い放ちます。 「罪を犯したことの無い人が石を投げなさい」 この発言により、石を投げる人たちはその場からいなくなり、マクダラノマリアは窮地を脱します。そして、その後イエスの集団に加わっていきます。

今年は2016年です。 西暦が、イエスの誕生した年から数えているのを考えると、少なくとも2000年前にも、集団で一方的に糾弾する現象が起き、それを止めようとしていた人がいたことがわかります。

認識のクセの観点から観れば、人の認識構造そのものに「部分しかとれない」「違いしかとれない」「過去とつなげて理解しようとしてしまう」「グループ分けしてしまう」という限界があり、全ての思考にはその限界が含まれています。 誰もがミスをすることは必然です。 ミスをした結果や事の重大さによって、ミスの罪の責が変わってきますが、それは、結果から解析した話です。

重要なのは、ミスをした時点ですぐにリカバリー(回復)出来ることではないでしょうか。 糾弾するべき論点が、「本当に解決すべき問題点は何か?」へ向かわない限り、糾弾する側と糾弾される側が入れ替わりながら同じ現象が続くだけです。 この連鎖を止めない限り、明日は我が身となります。

認識技術・観術の創始者であるNoh Jesuは、問題解決についてこんな例えをしました。

村に一本のリンゴの木があり、祝いの日が来るまでは決してリンゴの実を食べてはいけない「掟」がありました。 しかし、両親を事故で失った子どもが、空腹を満たすために、毎晩こっそりと食べ続けてしまいます。 リンゴの実が少なくなっていくのに気付いた村人たちが、犯人探しを始めます。 なかなか進展ぜず、大規模な捜索が始まろうとしていたときに、村長がある指示を出します。

「犯人を探すのではなく、村中にリンゴの木を植えなさい」

村人たちは、掟を破った犯人を探し、その罪を問うことを問題解決と考えています。 しかし、村長は、村の掟が問題を生み出した原因だと判断し、村の文化や掟を変化させ、誰もがリンゴをいつでも食べられる状態にすることとしたのです。

何を問題だと規定し、変化させるのかで、創られる未来は変わってきます。 ミスという現象だけで判断するのではなく、同じミスが起きないようにするには何を変えるべきなのかに着目する心が増えることで、新しい未来が創られていきます。

世の中を騒がせているニュースは何を問題だとしているのでしょうか。 なぜ、その問題が生まれてしまったのでしょう。 同じ現象が起きないために、何を問題とするべきなのでしょうか。

誰もがミスをしてしまいます。 どんなミスが起きてもリカバリー(回復)出来るポイントを探さない限り、2000年前から続くこの連鎖は、止まりません。

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