
理解とは。
何気なく使っている「理解」ですが、理解とは何かと問われると、ちょっと答えるのが難しいなと感じてしまう単語でもありますね。
「理解」が人生に与える影響は、どれ程あるでしょう?
意思決定や些細な気付き、正確な判断、物事の捉え方や使い方など、人生の小さなことから大きな岐路に至るまで、理解したことは自ら生きる糧となっていそうですね。
今回は、この「理解」について少し掘り下げてみたいと思います。
では、ここでひとつエピソードを。
男性3人が、愛について語っていたとします。
3人が考えた愛とは、
「支え合うこと」「切磋琢磨」「生き甲斐」
こんな単語でまとめようとしています。
そこに仲のよい女性3人が通りかかって「愛とは何か」について理解を深めようとしていることを知ります。
すると男性達に、
「何、勝手に決めてんのよ」
と、女性たちも話に加わることになりまた。
男性達が話をしていた「愛」と、女性達が話をしていた「愛」の共通する部分を見つけ単語で表現すると、「心を想う心」に落ち着きました。

さて、このエピソード。
愛についての議論の中で、理解したと言えるのはどこでしょうか?
初めは男性だけで話し合っていましたね。
言い換えると、男性の観点だけで理解しようとしていました。
そこに女性という異質な観点が加わります。
なぜ、女性達は「勝手に決めないで」と怒ったのでしょうか?
自分にも「関わりのあること」だからですね。
それを男性だけの観点で語るのは、本当の愛じゃない。男性の勝手な思い込みでしょ!
と思っちゃうのは、当然です。
ここに、とても重要なポイントがあります。
それは、ひとつの観点では思い込みになってしまうということです。
つまり、理解には、複数の観点が必要になるんだということです。
「複数の観点で考える」という行為は、身近かな内容と感じにくいかもしれませんが、実は日常でよく使う算数は、この法則によって成り立っている数学的理解方式です。
例えば、1+2=3。
なんのことはない算数ですよね。
これは、
左辺の「1+2」というパターンと右辺の「3」というパターンが同じだよと表しています。
何をいっているのかと言われそうですが、頭を柔らかくして捉えてくださいね。
「1+2」は「1+2」であって、他のものではありません。
同じように、「3」は「3」であって、他のものではないんです。
つまり、左辺と右辺は全く異質なものです。
でも、その関係性をみると、
「1+2」は、「3」といえる。「3」は「1+2」ともいえる関係にあることが理解できたよと言ってるのが、「1+2=3」なんです。
表現を変えると、
「1+2」を「3」を使って理解することができる。「3」を「1+2」を使って理解することができる。
と言えます。
つまり、相互関係を通して、相互を理解しようとしているのです。
「1+2」だけでは、「1+2」が何かを思い込むことはできても、理解することが難しいってことですね。
愛の話をこの表現に当てはめてみましょう。
「愛」=「心を想う心」
になりますね。
つまり、「心を想う心」を使って「愛」を理解したことになります。
「愛」だけで「愛」を理解することが難しいので、異質な観点によって理解しようとしたと言えます。
さらに、「男性」と「女性」の異質な観点の相互関係によって、理解を構築した「愛」だとも言えます。
左辺と右辺の異質な観点を使い、その関係を通して理解すること。
これが私たちが実はよく使っている「理解する」ということです。
この、思い込みではなく客観的な理解によって、科学が再現性のあるものとしてルネサンス以降進化し、科学技術として産業革命を牽引してきたことは、ご存知の通りですね。
私達の生活基盤は、この客観的かつ再現性のある「理解」がベースとなっています。
一方で、個人の持つ捉え方や考え方の根幹にある「何をどう認識するのか」のパートでは、まだ思い込みと事実の区別さえ混同しているのが実情です。そう、まだ認識に関しては、まるでルネサンス以前の魔術や錬金術が日常的に取りざたされていた頃と同じなんです。
この結果、個人の精神や性格、個性や在り方を意図的にデザインすることを困難にさせ、尊厳を自ら喪失してしまうことが当たり前のようになっています。
疎通の課題を解決するONECYCLE 7では、これまで人類が自分以外を開発してきたように、自分自身についても正しく理解し、自ら開発する必要があると考え活動しています。
今後も、自らをどのように捉えればいいのかといった情報をお伝えしていきたいと思っています。よろしくお願いします。
