認識のクセの3つの世界観が意味すること


「1/4脳の認識のクセと考え感情の関係を理解 認識のクセ編 」

でお伝えしている、認識のクセの3つの世界観。

ここでは、動画ではお伝えしきれなかったポイントに少し触れてみたいと思います。

動画の中でお伝えしたポイントは3つでした。

・1つ目は、認識できる世界とできない世界があること。

・2つ目は、脳が認識した世界に自分が色付けしている世界を見ていること。

・3つ目は、人類が生み出してきたあらゆるコンテンツはすべて認識のクセの中での話であること。

動画では、この3つの世界で、認識のクセの輪郭をとらえようとしています。

ここで言っていることは、つまり、

「われわれ人類は、有史以来ずっと、認識のクセの中であーじゃこーじゃやってきたんだ」

ということです。

もちろん、自分の人生も、誰かの人生もですね。

ちなみに、認識することのできない世界「全体、共通、今ここ、無限」については、人類は様々なアプローチでその世界を認識しようと頑張ってきています。

神や仏に始まり、ロゴスや道(TAO)、真空エネルギーや空、大いなる存在、ワンネスなど、呼び名やニュアンスは多種多様です。

なぜそこまで追求したがるのでしょうか?

それは、

人間とは何か(人文学)宇宙自然とは何か(自然学)を統合する答えを持っている世界観だと、思われているからですね。

しかし、何かを規定すれば、必ず反論が返ってくるのも現実という相対世界です。

例えば、

名前を付けている時点で、もう認識している世界の話になっちゃうから、全体ではなくなってしまうよね、という「不立文字」という禅の世界観があったり、

数学の世界では、

ある存在する事象を明確に説明するには、その次元よりもひとつ高次元の世界が必要になる。またそれを説明しようとすると次の次元が必要になる。

それが永遠に繰り返されることになるから、目の前の存在ひとつを明確に証明することはできないよ、という「ゲーテルの不完全性定理」という世界観もあったりします。

自分や宇宙を理解しようとすると、「全体、共通、今ここ、無限」を認識する必要性が生まれちゃう。

だけど、認識しようとした時点で、その世界は「部分、違い、過去、有限」の世界になってしまう。

明確に「全体、共通、今ここ、無限」を認識することはできない。

ということは、人間とは何か?、宇宙自然とは何か?を明確に確信することもできない。

そんなジレンマに陥っている人類の現在地が続いているんだということが見えてきます。

さらに、そのジレンマをとても複雑にさせているのが自分という存在の確立です。

誰もがそうですが、自分という存在を揺るがない存在として確信したい欲求を持っています。

しかし、認識する世界は、「どんな相違点を見るのかによって全体像がコロコロと変わってしまう世界」です。認識のクセの中にいる限り、確信を持つことが難しいんですね。

人間が有史以来、ずっと戦いをやめられないのは、自分という存在の確立。そしてその先にある、尊厳の確信を揺るぎないものにしたい欲求があるからに他なりません。

認識のクセの世界観について、動画の中ではサッと流していますが、実は認識のクセを理解すると、人間がこれまで追い求めてきた根本的な「限界」や「涙」と出会うことになります。

そして、この限界の影響をもれなく受けているのが、私たちの考え感情です。

疎通の課題を解決には、

この「限界」を自ら超えていくということ。そして一人ひとりが「涙」を抱きしめられる変化を自ら起こすことを当たり前のこととしたい、そんな願いが込められています。

言葉で綴ると、壮大な感じがしてしまいますが、気付いてしまえば当たり前のことなんですよ。

今回は、認識のクセの世界観について、動画ではお伝え出来なかったことに触れてみました。

認識のクセを、単なる情報知識で捉えるのではなく、人類がなかなか超えられなかった限界と涙の源なんだというイメージで捉えてもらえたらと思います。

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