個人、関係性の可能性を爆発させる


仕組みで考える観るとはどういうことか

 ・個人、関係性の可能性を爆発させる

仕組みで観るということをお伝えしていますが、実は人類の歴史上でも仕組みを観ることで、歴史的にとても大きな変化が起きた時代があります。

今回は、その辺を少し見つつ、仕組みで考えるということを、掘り下げてみたいと思います。

結論から言えば、その時代とはルネッサンスです。

ルネッサンス以降、科学が発展し、科学技術は社会に大きな変化を与えてきました。

そして、今の私たちは誰もがこの科学技術の恩恵を受ける日々を送っていますね。

この中心となっている科学の最も特徴的なのが「再現性」です。

再現とは、

ある条件をそろえることができれば、誰でも同じ現象を起こすことができるというものですね。

この科学が技術として確立されたことで、一般の人々の生活が大きく変わっていくことになります。

町の通り道のガス灯が電灯に変わり。

手紙から電報、そして電話へ変わりました。

食料の長期保存ができたり、薬がより安価に効果的になったり、馬車から電車、そして車へ、などなど。

その変化がその当時の人や物、情報やお金の変化・運動・移動に大きな加速度を与えたのは言うまでもありませんね。

では、ルネッサンス以前はどんな時代だったのでしょう。

実は、「暗黒時代」という単語が当てはめられていたりする、かなり物騒な時代だったようです。

暗黒時代という単語は、政治や宗教的な圧制や弾圧により、文化的な成長が滞った時代を意味します。

具体的にどんな時代だったのかというと、

王様や聖職者の判断基準が絶対だった時代です。

王族や貴族、聖職者と平民との格差も絶大ですね。

その権威を脅かすもの、失墜させる疑いのあるものは、権威の名のもと独断で死刑にされたり、牢屋にぶちこまれたりしていました。

魔女狩りや異端切りなど、まったく罪のない人々がこの犠牲になっています。

つまり、絶対的権威の秩序を脅かす存在を徹底的に否定してきた判断基準が執行されていた時代ですね。

この暗黒時代を終わりにさせたのがルネッサンスです。

コペルニクスの「天動説から地動説」、ルターの「宗教改革」、フランスの人権宣言、今の民主主義につながる「個の爆発」が起きた時代の幕開けです。

これを大きく後押ししてきたのが科学技術になります。

暗黒時代では、王様や神職の絶対秩序により、権威を超えることは不可能ですが、科学はオリジナルをいくらでも超えていくことができます。

先ず、基礎となる発見・発明が起き、そこに新たな技術を組み合わせていくことで、オリジナルでは不可能だった用途の拡張が可能となります。それと同時に、新たなビジネスが誕生し、雇用が生まれ、個人の経済が潤うことで、教養や知識が身についていきますね。これは文化文明の底上げにつながっていきます。

例えば電球で考えてみましょう。

まずは電磁気力の発見があり、エジソンが具現化させた電球が生み出されます。そこに、発電機や電気で動くアイロンなど、「発明を組み合わせる」ことで、発電所‐送電網‐家電という電力ビジネスが構築されます。この電力ビジネスを構築したのも実はエジソンなんですよ。

その後、エジソンが起こした会社の社員だったサミュエル・インサルという人物が、エジソンのビジネスモデルを一新させたことで、利用者の拡大と安価な加入を実現させていまに至ります。ちなみに、この一新させる時にエジソンとひと悶着あって、結局、裁判で勝利したインサルのモデルが現在のシステムになっているんです。

現代は、火力、風力、原子力、太陽光にまで拡がっていますよね。

オリジナルにとどまることなく、より広くより革新的な変化を生み出す土台になっているのが「再現性」なんです。

ちょっと個人的に不思議だと思うのが、

絶対的権威では、その圧倒的な力で秩序を守ってきたのに対して、科学の世界では、オリジナルを発見・発明した人を「偉大な人」として自然にリスペクトしています。この違いって不思議です。

さて、ここまでお伝えした内容が、実は私たちの「考え」そして「認識」にも当てはまるのだということなんです。

そして、残念ながら私たちの「考え」や「認識」は、ルネッサンス以前の暗黒時代と同じです。

どういうことか?

私たちは、認識構造の影響によって「自分が絶対に正しい」という判断基準を持っています。

この基準を持っているが為に、自分の存在や尊厳を脅かすものには、戦おうとしてしまいます。

その戦い方は、相手を潰そうとしたり、無視したり、事が過ぎるまでグッと我慢したりと場面によって様々な対応をしていますよね。

例えば、

関係性において有利なポジションを得るために、理攻めのコニュニケーションをとってしまう。

自分を守るために、自分が納得しないものは受け入れようとしない。

勝手に決め付けられることに、感情的に反応してしまう。

不自由さを恐れるがあまりに、意思決定や既定をすることが出来ない。

これらは全て、自分の絶対的な基準に基づいた解析の結果です。

ではなぜ、「自分が正しい」という判断基準を持ってしまうのでしょうか?

それも、不特定多数の人が。

Youtubeでお伝えしている「認識のクセと考え感情の関係を理解」の中でも触れている「認識構造」が大きな影響を与えています。

脳が認識している世界は、いくら考えをシャープに磨いたとしても変化不可能なポイントがあります。

錯覚していると理解しても、錯覚してしまいますよね。

これは、全ての解析は認識構造の土台の上に動く仕組みなんだということです。

さらに、全ての解析は、全体像が条件によってコロコロ変わってしまいます。

そのため、あらゆる解析が流動的になりやすいんですね。

そのままだと、自分という存在を確立することが出来なくなります。これでは、集団の中で自己を存在させることさえ危うくなってしまいます。

そんな中で身に付けるのが、

「ある条件では、こんな風に振る舞えばいいんだ」

「自分が愛されるには、これを気を付ければいいんだ」

というような、判断基準です。

そんな基準が自分の存在や尊厳と同化すると、絶対的な基準「自分が正しい」が生まれてしまいます。

つまり、自分が正しいという絶対的な基準は、誰もが持っている認識構造の影響を受けた解析の結果だということです。

認識構造に観点が固定している限り、この自分が正しいという絶対的な基準から自由になることは出来ません。

人類は、自分の外側の世界は、ルネッサンスを起こしました。再現性を手にし、文化文明の大きな飛躍は現在も進行中です。

しかし、自分の内側についてはどうでしょうか。

「自分が何をしたいのかが分からない」

「好きなことが分からない」

「自信がない」

「うまく考えることができない」

自分自身がどう生きるのかについて明確な実感を身に付けている人は多くはありません。

では、自分自身の認識のルネッサンスか可能なのだとしたら…。

それは、個人の可能性の新しい爆発でもあり、尊厳を失うことのない関係性の爆発になるでしょう。

そこで必要なのが、再現性のある解析や認識ができることであり、つまり、考えに仕組みが必要なんだということですね。

その未来を今ここから具現化させようとしているのが、疎通の画題を解決するということであり、このコンテンツの土台となっている認識技術・観術が行く道です。

#判断基準 #技術 #可能性 #解析の結果

19回の閲覧

​お問い合わせはこちら

@2020 by Yamada Yuki  Proudly created with Wix.com